言葉
今日は久しぶりのfreeday
友人に依頼されたとある書類の作成をして、やはり文章化が好きなんだなと思う
“言葉”は好きで、ずっと大切にしている
こう見えて意外と繊細な神経も持っていて(いた、か?)
悪意ではないにせよ人から言われた言葉やそこに含まれるニュアンスを拾って、後からじわじわ考えこんでいた時期も長かったので
私が使う言葉で後に相手が不快になったり、自分を責めるような思考になったりしないよう、言葉選びは常に相手に合わせて慎重にしているような氣がする
持っているものが違うから、それが完璧に功を成すわけではないと思うし
誰かに不快な想いをさせたことはもちろんあると思うけど
同じ言葉でもその意味合いは皆違うから誤解が生じたりするわけで
その違いを認識できる視野があれは、そうそう揉め事は起こらない
私の場合、もちろん勝手なただの勘違いもあると思うけれど
価値観の違いを認識して、またそれを理解(容認)できてしまうことによる弊害もある
そもそも違う訳だから、自分の意見を言ってそこで意見を戦わせる必要性を感じず
これまで人と喧嘩をしたことがない
若い頃は、バチバチに口喧嘩している友人たちがある意味羨ましかった(笑)
意見を戦わせるという視点ではなく、理解してもらうという視点が健全なんだろうなと今は思っていて、やる気がある時や必要なことに関しては少しずつ伝えられるようになっている
でも、そんなことをしなくても自然な会話の中からその奥にあるものを理解してくれる人はしてくれるので、理解してもらおうという視点さえも不要になりつつあるありがたい昨今
言葉に載る想いを感じることも好きで
発する言葉と内側にあるものの相違へのアンテナは多分高い
そこを突っ込むと大抵本人が内側に氣付くから、やはり誰もが自分にとっての正解は知っているんだなと思う
言葉やそこに載る波動に敏感だからこそ、その発するものに強い反応をすることもあって生きづらさを感じることもある(笑)
何も氣付かなければ、ある意味鈍感さを持っていれば、人との関係は随分と楽なんだろうなと思うし、そんな風に人と関わっている人もたくさんいる
でも、こんな敏感さを持っていることも、きっとそこに私が学ぶべきことがあったり、何かしらの役割を果たすことにおいて必要なんだろうなと
今は全ての自分の全ての性質を肯定的に捉えることができるようになっている
本を書いた方がいいと何人かに言われ続けていて、確かに何の違和感もないけれど
でもじゃあ何を?と考えると全く分からないし、まだそこに私のpassionも見つかっておらず
それが本当に必要なことなのであればそんなタイミングも来るのだろうなと呑気に過ごしつつ
日々想うことを書き残しておいた方が良いとの助言から、誰も見ていないであろうここに残してみている
でも本当に、想いを文章で表現することは楽だしまぁスラスラ出てくる♪
そしてこのサイトがシステム的に携帯では編集できなくなったから普段あまり使うことのないPCで書くという作業になっているけれど、それもなかなか新鮮で良い
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